1. 人類が初めて見た“影”
2019年、イベント・ホライズン・テレスコープ(EHT)の国際チームは、
史上初めてブラックホールの「影」を撮影しました。
対象となったのは、楕円銀河M87の中心に存在する超巨大ブラックホール、M87*(エム・はちじゅうなな・スター)です。
(天文学では、銀河中心の強い電波源を示すために、天体名の末尾に「*」(読み:アスタリスク、スター)を付ける慣習があります。)
M87*は太陽の約65億倍の質量を持ち、地球からおよそ5,500万光年離れています。
その「影」の直径は約400億km、太陽系の大きさに匹敵します。
2. なぜ、最初のターゲットは「M87*」だったのか
銀河の中心には多くのブラックホールが存在しますが、EHTが最初に観測対象として選んだのがM87*でした。
その理由は、観測条件の良さにあります。
<巨大さ>
M87*は太陽のおよそ65億倍の質量を持ち、ブラックホールの“影”の見かけのサイズが大きく、観測しやすいことが特徴です。
<安定性>
周囲のガスやジェットの動きが比較的ゆるやかで、観測中に明るさや形が大きく変化しません。
長時間の観測に適した安定した天体です。
<見かけの大きさ>
M87は地球から約5,500万光年離れていますが、その影の角度の大きさは約40マイクロ秒角。
これは「月面に置かれたオレンジを地球から見る」ほどの小ささです。
それでも観測可能なほど、M87は大きく明るい天体です。
一方で、私たちの銀河の中心にあるいて座A*は、距離こそ近いものの、質量が小さく、周囲のガスが激しく揺らぐため安定しません。
そのため、最初のターゲットとしてはM87*が最適でした。
3. 地球規模の観測網 ─ EHTの挑戦
観測には、ハワイ、チリ、メキシコ、南極、ヨーロッパなど、地球上8か所の電波望遠鏡が参加しました。
各地の観測データは原子時計によって誤差10億分の1秒以下で同期され、地球の自転を利用しながらM87*を同時に観測しました。
1回の観測で得られたデータ量は約5ペタバイト(5,000TB)
あまりにも膨大なため、データはインターネットでは送れず、ハードディスクを航空便で解析センターまで運ぶという方法が採られました。
4. データの画像化
EHTが観測した膨大な観測データは、複数の解析手法で再構成して画像化されました。
これがオレンジ色のドーナツ状の画像です。
つまり、M87* の画像はシャッターを切って撮った「写真」ではなく、観測データを数理的に組み立てて得られた「再構成画像」なのです。
5. 得られた画像の意味
EHTの観測によって得られたリングの形状は、一般相対性理論の予測と高い精度で一致しました。
ブラックホールが理論どおりの姿を持つことが、観測によって初めて直接的に確認されたのです。
この成果は、アインシュタインの理論が極限的な重力場でも成立していることを示す重要な検証となりました。
ブラックホールはもはや「仮説上の天体」ではなく、実在する天体として確かな証拠を得たのです。
“We have seen what we thought was unseeable.”
「見えないと思われていたものを、私たちは見たのです。」
— Event Horizon Telescope チーム声明より
6. M87のスケール感と宇宙的比較
M87銀河は、おとめ座銀河団に属する巨大楕円銀河で、直径は約12万光年、天の川銀河の約1.2倍の大きさです。
中心にあるM87*の質量は太陽の約65億倍。
事象の地平線の直径は約400億kmで、もし太陽系の中心に置くと、冥王星の軌道よりも外側まで広がります。
M87*は「観測可能な中で最も巨大なブラックホール」のひとつですが、宇宙にはさらに巨大なブラックホールも存在します。
たとえば「TON 618」は太陽の約660億倍の質量を持つと推定されていますが、距離が遠く、直接観測は困難です。
7. もうひとつの観測:いて座A*
2022年、EHTは私たちの銀河の中心「いて座A*」の観測にも成功しました。
距離は約2万6,000光年と近いものの、質量は太陽の約400万倍で、M87*よりはるかに小型です。
そのため周囲のガスが高速で動き、明るさが短時間で変化します。
この“揺らぎ”を補正するために、EHTチームは膨大なデータの解析を行いました。
結果として得られた画像は、M87*と同様のドーナツ状のリング構造を示し、ブラックホールの構造がどの銀河でも共通であることを実証しました。


中央の暗い部分は「事象の地平線の影」を表しています。
8. 次なる挑戦 ─ ブラックホールの「動画化」へ
EHTの次の目標は、ブラックホールの時間変化を観測することです。
現在進められている「ダイナミックEHT(D-EHT)」計画では、ブラックホールの周囲でガスや磁場がどのように変化するのかを、連続的にとらえる試みが行われています。
この計画では、望遠鏡ネットワークをさらに拡大し、観測頻度と解析速度を高めることで、ブラックホールの“動き”を映像として再現することを目指しています。
この研究が進めば、一般相対性理論の枠を越えた新しい物理、量子重力理論の検証につながる可能性もあります。
9. まとめ
M87* の観測では、地球規模の望遠鏡ネットワークを用いて、ブラックホールの存在を観測と理論の両面で確認しました。
これは、一般相対性理論が予測したブラックホールの姿と一致しています。
ブラックホール研究は今後、時間変化の解析や重力波観測と結びつき、宇宙の始まりを理解する新たな手がかりになると期待されています。
ちなみに名前が似ていますが、「M87星雲(ウルトラマンの故郷)」と今回の「銀河M87」はまったく別物です。
■出典・参考資料:・Event Horizon Telescope Collaboration
・史上初、ブラックホールの撮影に成功 ― 地球サイズの電波望遠鏡で、楕円銀河M87に潜む巨大ブラックホールに迫る – 国立天文台
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